歴史小説家の大変さ
どうも、ぶっちーです。
のっけからそんなに難しい話をするのは疲れるので、最初は軽い話をしましょう。
話の内容は題名の通り、『歴史小説家の大変さ』についてです。
小説はどれでもかんでも、案外書いてみると大変なものです。ライトノベルだろうが、純文学だろうが、とにもかくにも大変なのです。
意外かもしれませんが、きっとライトノベルも純文学も書いてる当人の苦しみからすればどちらも同じようなものだと思います。私小説という括りで見ればどれもどんぐりの背比べでしかないわけで。
ライトノベルも純文学も自分の経験の限界を突き詰めるわけですから、大変さという基準では一緒なのです。ライトノベルが低俗だ、という人もおられるでしょうが、それは当たり前です。だいたい書いてる本人が残念なのですから。
さて、ライトノベル作家も純文学作家も私小説である以上、だいたい一緒ですが、歴史小説を書いてる人は彼らとはだいぶ趣が違います。なぜなら、歴史小説は私小説とはだいぶ性格を異にしていまして、自分の経験の限界どころか、想像力と知識の限界も突き詰めなきゃならんからです。
思うに、歴史小説というのは個人の内面的世界に閉じこもるのは不可能であり、常に社会との関わりを考えなくてはならないわけです。当時の価値観であったり、歴史であったり、そういうのを嫌でも意識せざるを得ない。そこら辺がすごい大変なのです。
資料を漁って、できるだけ事実とは離れないようにしなくてはならないわけですから大変です。
頭のなかでストーリーが出来上がるのはどんなにラクなことか。自分の価値観、倫理に立脚してストーリーを考えることが出来るのですからまだ楽なのです。歴史小説家というのはそれに加えて、知識とかが居るわけです。政治、文化、経済、思想、宗教。
ね?そう考えたら大変でしょ?
そういう訳で、小説家というのはだいたい大変なのですが、特に歴史小説家は大変なのです。あと、SF作家とかも大変だと思います。
まぁ、私のこの主張は、私小説に対する非難であったりもするのですが、そこはいつかお話しましょう。
思うに、一流の作家というのは小説が書けるだけではなくて、評論が書ける人物であると思います。私的世界に引きこもるのではなく、私的世界と公的世界の関わり合いを見つめることこそが、現代の小説家の仕事だと思うのですが、如何でしょうか?
以上です。それではまた今度。